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煤つきガラスで日食は見るな [ニュース]
ついに、5月21日の朝、日本で金環食がみられる。しかも、太平洋ベルト地帯を南九州から四国、大坂、名古屋、静岡を経て東京に至る人口稠密地帯を食が通りぬける。こんなチャンスはもう当分ないので、これを見逃す手はない。天空に金環が出現する数分間を挟んだ日食は、文字通り世紀の天体ショー。再現のできない興奮の時を、どれだけ多くの日本人が目撃することになるだろうか。日食は、年に数回必ず地球上のどこかで生じる現象なので、それ自体は珍しいことでもないのだが、太陽に月が完全に重なる皆既食か金環食は年に一度あるかないか。さらにそれが小さな日本列島をかすめるのは数十年に一回程度。つい最近では2009年に沖縄のトカラ列島で皆既日食が見られたが、国内の陸地で見られた皆既食としては、1963年の北海道東部での皆既食以来なんと46年ぶりだった。最近の金環食としては、1987年の沖縄本島を通ったものが八丈島を通った1958年以来29年ぶりという頻度。しかも、食の中心帯は狭いため、たまたま住んでいる場所で、もしその現象に出会え、しかもお天気がよくてしっかり見ることができたら、それはもう幸運としか言いようがない。世界には日食ハンターとか呼ばれるマニアがいて、世界中の皆既食、金環食を追い続け、自分の目で見ることに全力を注いでいるというが、それだけ人の心を引きつける魅力があるということだろう。
小学校のころに日食を見るといえば、煤つきガラスと相場が決まっていた。ガラスの小片(当時はどこの家庭にも普通にあった)に、蝋燭(これも当時の必需品だった)の炎を近づけ、煤(すす)をべったりと付着させて作ったものだ。こうやって作るんだというのを、授業で教えられたようにも記憶している。それくらい当たり前で、必須アイテムだった。中学のときには、露光したネガフィルムでもよいという話になり、これなら煤で手が汚れなくていいなと感心したものだった。
ところが、21日の金環食では、そうはいかなくなってきたらしい。うかつに日食を見ようとするとえらいことになりますよという警告がたくさん出されている。日食を見ることで目に深刻な障害が生じるという。障害の名称は「日食網膜症」。大鹿哲郎・筑波大学眼科教授によれば、日食網膜症とは、眼球によって集光された太陽光が眼底を傷つけることで起きるもので、網膜の中でも最も感度の高い部位であり、多くの視神経が集まっている中心窩が傷つくことで起きる。日食網膜症の主な症状は、次の三つ。中心暗点;視覚の中心に黒い点が発生し、そこだけ見えなくなってしまう。変視;視覚の真ん中が歪んで見えてしまう。視力低下、霧視;視覚がぼんやりとしてしまう。しかも、傷害の程度は「曝露量率」と「曝露時間」の積で決まるので、「短時間に強い光を見る」「長時間にそれほど強くない光を見る」といういずれのケースでも、同じように傷害が発生する。すなわち、「直視できるくらいの光なら、しばらく見ていても安全」ということはないという。なるほど、何かが昔と変わったのではなく、そもそも太陽を直接に見ることは昔から危険なことだったらしい。
これはかなり重要な情報だ。そして、障害を避けるための予防として次の点に注意すべきとしている。「普通のサングラス、色つきの下敷きやカラープラスチック板、CD板、カラーフィルムなどは、全て予防効果はありません。ローソクの煤をつけたガラスについては、昨今のローソクでは煤が出ないので、期待できるほどの予防効果はないといえます。太陽を直接観察する方法としては、市販されている「日食グラス」を通して見る方法が、最も適当といえるでしょう。」
そうか、煤ガラスはだめなのだ。露光したネガフィルムもだめそう。もっとも、アナログのカメラも使わなくなって久しいので、フィルムも身近にはないのだが。
21日の金環食は果たしてどれだけ多くの人が空を見上げるようになるかはわからないが、どうも今の様子では少なくない相当数の人が、日食後に目の不調を訴えることになるのではないか。書店やコンビニに置いてあるたくさんの「日食グラス」が品切れになるような雰囲気は、いまのところまったくないようなので少々心配だ。ちなみに、少々古い話しだが、1912年のドイツにおける日食では、眼の傷害を訴えた人が3500人を超えたとされている。また、1983年のインドネシアの皆既食では、失明リスクを避けるために、「見せない」運動が起こされたという。そこまでやってもなあとは思うが...
ゲームチェンジャーとしての天然ガス [エネルギー]
“Natural gas, Difference Engine: Awash in the stuff”, Babbage, The Economist,
May 4th 2012, by N.V. | Los Angeles より
以下は、英エコノミスト誌に掲載された記事の概要をまとめたもの。(精密な翻訳ではない)
--------------------------------------------------------------------------
水圧破砕方式の採用によって、米国ではシェールガスが地に溢れ、天然ガス価格は5年前の4分の一に下落した。いまのペースで天然ガス会社が増産し続けると、米国中の貯蔵庫はこの秋までに満杯になる。現在のスポット価格では、ガス生産者は完全に豊作貧乏に陥っている。このままでは、懐に余裕のある巨大企業しか生き残れない。
2000年には、米国の天然ガス埋蔵量はわずか12年だったのが、シェールガスにシフトしたことで、それが100年にまで拡大した。しかも、既開発井からの採掘量も予想したようには減少しないことから、実質上の埋蔵量は倍にもなるとの見方も。
米国は、国内で消費する石油の半分以上を輸入しており、その消費する石油の3分の2は輸送用途に使われているので、技術的な問題はさておき、論理的には天然ガスの最大マーケットは“クルマ”ということになる。輸送分野において、もしガソリンから天然ガスに転換することができたら、例えばブラジルのようにガソリン車からCNG(圧縮天然ガス)車に転換してしまえば、米国は外国産石油に依存する必要がなくなる。
価格要素だけでなく、環境への影響も低く優位性は高いが、現行のクルマでそのままCNGを使うには安くはない変換器が必要だし、何よりガスタンクが多くの空間を占有するため利便性が失われる。米国で唯一CNG向けに開発された専用車は、ホンダシビックGXのみ。弱点はパワーが低めなことと、やはり一般車より割高なこと。しかし燃料費はシェールガスのおかげもあって相当に安い。そしてなによりクリーン。EVやPHVなみのクリーンさだ。
しかし、なにより不利な点はCNG供給所が圧倒的に少ないこと。全米でガソリンスタンドが12万ヶ所なのに、CNGスタンドはわずか1千ヶ所。CNG車は、小型車よりバス、トラックなどの大型車に向いているという評価から既に全米で11万台以上の地域バスが稼動している。天然ガス価格の低下に伴って、割高なディーゼルトラックを採用している運送会社はCNG車両への転換に動きつつある。
運輸分野以外の産業でも天然ガスの価格低下の影響が拡大している。ダウケミカル社は、中東に計画していた石油化学工場を米国内に変更した。安価なシェールガスが、化学産業に新しい競争力をもたらした。まさに“ゲーム・チェンジャー”として、産業の若返りと雇用の国内回帰をもたらしている。
電力分野では、石炭火力から天然ガス火力発電へのシフトが加速されている。価格低下が続くガスによって、安価な電力の代表であった石炭火力の発電単価は、ガス発電の2倍になっている。昨年時点では、全電力の45%が石炭火力、ガスが24%だったが、今後石炭火力の30%をガス火力に転換していくことで、電力価格を10年は維持あるいは減少させることが可能と評価している。
-------------------------------------------------------------------------
米国のシェールガスはバブル状態でこの後が心配だという論調の記事は多いのだが、それにしても天然ガスの価格低下がゲーム・チェンジャーで産業と雇用拡大の切り札だとまで言われてしまうと、正直引いてしまう。原発が全機停止し、必要な最低限の電力さえも賄えないかもしれないとざわついているわが国の現状を考えると、これはもう考え方を根本からひっくり返さない限り、国が成り立たないのではないか。いまから70年前に、ABCD包囲網によって南方の資源を絶たれた時の行き詰まり感とやはり似ているところがあると認めざるをえない。ここからどう知恵を出せるか、国民に進むべき道を指し示せるか。政治の責任がますます大きく重い。
以下は、英エコノミスト誌に掲載された記事の概要をまとめたもの。(精密な翻訳ではない)
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水圧破砕方式の採用によって、米国ではシェールガスが地に溢れ、天然ガス価格は5年前の4分の一に下落した。いまのペースで天然ガス会社が増産し続けると、米国中の貯蔵庫はこの秋までに満杯になる。現在のスポット価格では、ガス生産者は完全に豊作貧乏に陥っている。このままでは、懐に余裕のある巨大企業しか生き残れない。
2000年には、米国の天然ガス埋蔵量はわずか12年だったのが、シェールガスにシフトしたことで、それが100年にまで拡大した。しかも、既開発井からの採掘量も予想したようには減少しないことから、実質上の埋蔵量は倍にもなるとの見方も。
米国は、国内で消費する石油の半分以上を輸入しており、その消費する石油の3分の2は輸送用途に使われているので、技術的な問題はさておき、論理的には天然ガスの最大マーケットは“クルマ”ということになる。輸送分野において、もしガソリンから天然ガスに転換することができたら、例えばブラジルのようにガソリン車からCNG(圧縮天然ガス)車に転換してしまえば、米国は外国産石油に依存する必要がなくなる。
価格要素だけでなく、環境への影響も低く優位性は高いが、現行のクルマでそのままCNGを使うには安くはない変換器が必要だし、何よりガスタンクが多くの空間を占有するため利便性が失われる。米国で唯一CNG向けに開発された専用車は、ホンダシビックGXのみ。弱点はパワーが低めなことと、やはり一般車より割高なこと。しかし燃料費はシェールガスのおかげもあって相当に安い。そしてなによりクリーン。EVやPHVなみのクリーンさだ。
しかし、なにより不利な点はCNG供給所が圧倒的に少ないこと。全米でガソリンスタンドが12万ヶ所なのに、CNGスタンドはわずか1千ヶ所。CNG車は、小型車よりバス、トラックなどの大型車に向いているという評価から既に全米で11万台以上の地域バスが稼動している。天然ガス価格の低下に伴って、割高なディーゼルトラックを採用している運送会社はCNG車両への転換に動きつつある。
運輸分野以外の産業でも天然ガスの価格低下の影響が拡大している。ダウケミカル社は、中東に計画していた石油化学工場を米国内に変更した。安価なシェールガスが、化学産業に新しい競争力をもたらした。まさに“ゲーム・チェンジャー”として、産業の若返りと雇用の国内回帰をもたらしている。
電力分野では、石炭火力から天然ガス火力発電へのシフトが加速されている。価格低下が続くガスによって、安価な電力の代表であった石炭火力の発電単価は、ガス発電の2倍になっている。昨年時点では、全電力の45%が石炭火力、ガスが24%だったが、今後石炭火力の30%をガス火力に転換していくことで、電力価格を10年は維持あるいは減少させることが可能と評価している。
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米国のシェールガスはバブル状態でこの後が心配だという論調の記事は多いのだが、それにしても天然ガスの価格低下がゲーム・チェンジャーで産業と雇用拡大の切り札だとまで言われてしまうと、正直引いてしまう。原発が全機停止し、必要な最低限の電力さえも賄えないかもしれないとざわついているわが国の現状を考えると、これはもう考え方を根本からひっくり返さない限り、国が成り立たないのではないか。いまから70年前に、ABCD包囲網によって南方の資源を絶たれた時の行き詰まり感とやはり似ているところがあると認めざるをえない。ここからどう知恵を出せるか、国民に進むべき道を指し示せるか。政治の責任がますます大きく重い。
災害への備えは不要か [雑誌記事]
社会安全研究会インタビュー「社会安全哲学の構築に向けて」中村英夫:東京都市大学総長、土木学会誌 vol.97 no.5 May 2012 より
「これまで日本は海外から『防災先進国』だという評価を受けてきました。そうした評価と今回の現状(東日本大震災)をどうとらえていますか」という問いに対して、土木だけでなくわが国を代表する賢人でもある中村先生は次のように述べられている。
「安全にかかわる事件、事故というのはきわめてまれにしか起こりません。・中略・そのため人びとは過去の災害を忘れ、対策を疎かにしていきます。・中略・そういう災害を忘れさせないようにするというのが、土木事業、防災事業にかかわる私たちの大変大きな仕事だと思っています。・中略・関東大震災のことですら多くの人びとは忘れています。僕らはその大震災を忘れず、この事業はいずれは来る災害対策のために必要なのだということを叫ばなければなりません。『土木の連中は自分たちの仕事を増やしたいがためにそそのように言っているのだ』という人もいるようですが、それに抗して、必要性を常に示していくのが、僕らの大事な仕事と思っています。」
土木の仕事がここまで貶められてきたのは、いったい何がそうさせたのだろうと改めて思う。中村先生が指摘しておられるように、土木屋は自分の食い扶持を稼ぐためだけに仕事を作り、無用な橋や道路やダムを日本中に増殖させていると言いつづけられて来た。周りを振り返れば、「コンクリートから人へ」と言いつのる勢力が依然として幅を利かせており、土木屋の窮状は大きくは変わっていないようにみえる。
広く知られるように、わが国は1995年頃よりGDPの伸びが止まり、税収が減少し続ける中で、少子化と高齢化による社会保障費の増大を賄うために、公共投資、教育研究、防衛費などが圧縮され続けてきた。年を追って厳しさを増す財政状況の中で、不要な公共投資を削減すべきという意見が勢いを得、やがては公共投資(土木)イコール悪という構図がいつか定着してしまっていた。国会でも、猿や猪しかいないところに高速道路を設けることは政策として誤りであり、それに投じる税金こそ福祉と雇用に回すべきといった議論が真面目に行なわれていた。
しかし、この20年間で世界の状況は大きく変貌している。わが国が公共投資を削り続けている間、EUでも北米でも自国の競争力強化と雇用確保のためインフラ投資を増強し続けてきたのだ。例えば、EUは1993年に58,000キロの道路計画を立てていたが、20年後の2004年の新しい計画では5割り増しの89,500キロに拡大している。これに対してわが国は、1987年の四全総で道路計画を14,000キロと定めたものの、25年を経過した現在までその計画はそのまま据え置かれている。さらには無用な道路を作り続けているのではないかという議論が続いているのが現状である。
中村先生は、また次のようにも述べておられる。
「日本は防災事業のニーズが極端に大きい国です。そこは他の国との大きな違いです。それは私たちの宿命です。日本は美しく豊かな自然を持つ素晴らしい国土です。しかし自然災害は多く、常に私たちはこれを意識し、多くの防災対策を施さなければならないのです。・中略・災害の恐れのない欧米諸国の人びとより何割かは余分に投資し、その分働くことが必要でしょう。それでなければ彼らに負けない生活を謳歌することはできないのです。・中略・防災事業には多くの費用も時間も必要です。目先のことだけを見れば不要という意見も多く出ます。しかし、この国土に住む以上は、間違いなく必要です。大きな防災投資が必要のない国の人びとに比べて私たちはより多く勉強し、働かなければならないのです。」
わが国は、地震や津波や洪水などの様々な災害に傷つくことが他の先進国と比べて際立って多い。そしてそのことが、変化に富んだ多様な文化を醸成し、日本の国土が世界のどこにもない独特の美しさを保ち続けさせているということを、3.11を体験し改めて理解できたように感じている。だからこそ、そのハンディを克服するという宿命を背負い、我々は生きていくしかないという中村先生の深い洞察には強く共感できる。
「これまで日本は海外から『防災先進国』だという評価を受けてきました。そうした評価と今回の現状(東日本大震災)をどうとらえていますか」という問いに対して、土木だけでなくわが国を代表する賢人でもある中村先生は次のように述べられている。
「安全にかかわる事件、事故というのはきわめてまれにしか起こりません。・中略・そのため人びとは過去の災害を忘れ、対策を疎かにしていきます。・中略・そういう災害を忘れさせないようにするというのが、土木事業、防災事業にかかわる私たちの大変大きな仕事だと思っています。・中略・関東大震災のことですら多くの人びとは忘れています。僕らはその大震災を忘れず、この事業はいずれは来る災害対策のために必要なのだということを叫ばなければなりません。『土木の連中は自分たちの仕事を増やしたいがためにそそのように言っているのだ』という人もいるようですが、それに抗して、必要性を常に示していくのが、僕らの大事な仕事と思っています。」
土木の仕事がここまで貶められてきたのは、いったい何がそうさせたのだろうと改めて思う。中村先生が指摘しておられるように、土木屋は自分の食い扶持を稼ぐためだけに仕事を作り、無用な橋や道路やダムを日本中に増殖させていると言いつづけられて来た。周りを振り返れば、「コンクリートから人へ」と言いつのる勢力が依然として幅を利かせており、土木屋の窮状は大きくは変わっていないようにみえる。
広く知られるように、わが国は1995年頃よりGDPの伸びが止まり、税収が減少し続ける中で、少子化と高齢化による社会保障費の増大を賄うために、公共投資、教育研究、防衛費などが圧縮され続けてきた。年を追って厳しさを増す財政状況の中で、不要な公共投資を削減すべきという意見が勢いを得、やがては公共投資(土木)イコール悪という構図がいつか定着してしまっていた。国会でも、猿や猪しかいないところに高速道路を設けることは政策として誤りであり、それに投じる税金こそ福祉と雇用に回すべきといった議論が真面目に行なわれていた。
しかし、この20年間で世界の状況は大きく変貌している。わが国が公共投資を削り続けている間、EUでも北米でも自国の競争力強化と雇用確保のためインフラ投資を増強し続けてきたのだ。例えば、EUは1993年に58,000キロの道路計画を立てていたが、20年後の2004年の新しい計画では5割り増しの89,500キロに拡大している。これに対してわが国は、1987年の四全総で道路計画を14,000キロと定めたものの、25年を経過した現在までその計画はそのまま据え置かれている。さらには無用な道路を作り続けているのではないかという議論が続いているのが現状である。
中村先生は、また次のようにも述べておられる。
「日本は防災事業のニーズが極端に大きい国です。そこは他の国との大きな違いです。それは私たちの宿命です。日本は美しく豊かな自然を持つ素晴らしい国土です。しかし自然災害は多く、常に私たちはこれを意識し、多くの防災対策を施さなければならないのです。・中略・災害の恐れのない欧米諸国の人びとより何割かは余分に投資し、その分働くことが必要でしょう。それでなければ彼らに負けない生活を謳歌することはできないのです。・中略・防災事業には多くの費用も時間も必要です。目先のことだけを見れば不要という意見も多く出ます。しかし、この国土に住む以上は、間違いなく必要です。大きな防災投資が必要のない国の人びとに比べて私たちはより多く勉強し、働かなければならないのです。」
わが国は、地震や津波や洪水などの様々な災害に傷つくことが他の先進国と比べて際立って多い。そしてそのことが、変化に富んだ多様な文化を醸成し、日本の国土が世界のどこにもない独特の美しさを保ち続けさせているということを、3.11を体験し改めて理解できたように感じている。だからこそ、そのハンディを克服するという宿命を背負い、我々は生きていくしかないという中村先生の深い洞察には強く共感できる。
あんなに働くんじゃなかった [雑誌記事]
「死に際につぶやく5つの後悔」スージー・スタイナー、ガーディアン誌2012年2月1日号より
あなたは人生の最期の時に、どんな「後悔」を口にするだろうか。
- 終末看護に携わっている看護婦が明かす、患者最期の繰り言とは -
オーストラリアの看護婦であるブローニー・ウェアは、この数年の間、死期の迫る患者へのケアを続けてきた。そこで耳にした、患者の最期の悟りとも言うべき多くの言葉を Inspiration and Chaiというblogに載せ、最近これが本としてまとめられ、話題になっている。
ウェア氏は、本当に「あたりまえ」のことが次から次へ出てくると述べている。その「あたりまえ」のベスト5は次のとおりだ。
1.自分に正直に生きる勇気を持つべきだった
2.あんなに懸命に働くんじゃなかった
3.感情をもっとストレートに出せばよかった
4.友達をもっと大切にするんだった
5.自分をもっと幸せにするんだった
なるほど、いずれも「あたりまえ」過ぎるほど。特別なこと、はそこにはない。ここでは5つに分けられてはいるが、共通するところも多い。例えば、1、3、5は要約すると、自分の心に忠実であればよかった、自分を押し殺すことはなかった、ということだろうか。家族や組織や、自分の周りの人間関係のことばかり気にして、自分自身の気持ちに正直ではなかった。所属するムラの「掟」や約束事に従っていることがどれほどラクなことか。ムラから一歩踏み出して、外界の向かい風を覚悟することがどれほど難しいか。変化を避けたいという気持ちに支配されることは麻薬のようなもの。でもそのつけは、ずっと後になってしっかりと回ってくる。あの時に、ちょっとでも前に出ていればと心底思うのは、死神が目前に佇んだ時なのだ。
2と4も似たところがある。全力を投じて尽くしてきた仕事が、本当にそんなに大事なことだったのか。なぜ、仕事以外のことに思い切り時間や力を投じなかったのか。大切な友達を持つチャンスをどこかで自ら捨ててしまったのではないか。家族と過ごす時間をもっともっとつくるべきだったろう。限られた人生にとって、配分すべき時間のバランスをどう設定すればよかったのだろう。
2月の末に高校の同級生の一人が、突然亡くなったという知らせが届いた。体の具合が良くないらしいということは聞いてはいたのだが。まさか、こんなに早く...動転した。2月初旬に入院、わずか10日で旅立ってしまったらしい。彼は高校の演劇部に属していたが、3年の時に応援団長を務めるなど、常に集団の先頭に立つ熱血漢だった。個人的な付き合いはあまりなかったが、現在でも医療を中心とした社会派のライターとして、第一線で精力的な活動を続けていることは友人の噂などで知ってはいた。先日、その彼の突然の死を惜しむ多くの友人が悼む会を開くということを聞き、ここ何年か会えずにいたことを悔やみながら、会に加わった。
会場に展示されていた彼の活動資料や年表を目の当たりにし、加えて知人友人のエピソードを聞き、彼が太く芯のある生き方にこだわり続けてきたことを初めて知った。そして、家族、友人からこんなに深く厚く敬愛される人生を送っていたなんて。本人が元気ならば笑い飛ばされるかもしれないが、彼には死期に際しての「繰り言」はなかっただろう。それにしても、早すぎたよ。君と多くのことを語り合いたかった。
あなたは人生の最期の時に、どんな「後悔」を口にするだろうか。
- 終末看護に携わっている看護婦が明かす、患者最期の繰り言とは -
オーストラリアの看護婦であるブローニー・ウェアは、この数年の間、死期の迫る患者へのケアを続けてきた。そこで耳にした、患者の最期の悟りとも言うべき多くの言葉を Inspiration and Chaiというblogに載せ、最近これが本としてまとめられ、話題になっている。
ウェア氏は、本当に「あたりまえ」のことが次から次へ出てくると述べている。その「あたりまえ」のベスト5は次のとおりだ。
1.自分に正直に生きる勇気を持つべきだった
2.あんなに懸命に働くんじゃなかった
3.感情をもっとストレートに出せばよかった
4.友達をもっと大切にするんだった
5.自分をもっと幸せにするんだった
なるほど、いずれも「あたりまえ」過ぎるほど。特別なこと、はそこにはない。ここでは5つに分けられてはいるが、共通するところも多い。例えば、1、3、5は要約すると、自分の心に忠実であればよかった、自分を押し殺すことはなかった、ということだろうか。家族や組織や、自分の周りの人間関係のことばかり気にして、自分自身の気持ちに正直ではなかった。所属するムラの「掟」や約束事に従っていることがどれほどラクなことか。ムラから一歩踏み出して、外界の向かい風を覚悟することがどれほど難しいか。変化を避けたいという気持ちに支配されることは麻薬のようなもの。でもそのつけは、ずっと後になってしっかりと回ってくる。あの時に、ちょっとでも前に出ていればと心底思うのは、死神が目前に佇んだ時なのだ。
2と4も似たところがある。全力を投じて尽くしてきた仕事が、本当にそんなに大事なことだったのか。なぜ、仕事以外のことに思い切り時間や力を投じなかったのか。大切な友達を持つチャンスをどこかで自ら捨ててしまったのではないか。家族と過ごす時間をもっともっとつくるべきだったろう。限られた人生にとって、配分すべき時間のバランスをどう設定すればよかったのだろう。
2月の末に高校の同級生の一人が、突然亡くなったという知らせが届いた。体の具合が良くないらしいということは聞いてはいたのだが。まさか、こんなに早く...動転した。2月初旬に入院、わずか10日で旅立ってしまったらしい。彼は高校の演劇部に属していたが、3年の時に応援団長を務めるなど、常に集団の先頭に立つ熱血漢だった。個人的な付き合いはあまりなかったが、現在でも医療を中心とした社会派のライターとして、第一線で精力的な活動を続けていることは友人の噂などで知ってはいた。先日、その彼の突然の死を惜しむ多くの友人が悼む会を開くということを聞き、ここ何年か会えずにいたことを悔やみながら、会に加わった。
会場に展示されていた彼の活動資料や年表を目の当たりにし、加えて知人友人のエピソードを聞き、彼が太く芯のある生き方にこだわり続けてきたことを初めて知った。そして、家族、友人からこんなに深く厚く敬愛される人生を送っていたなんて。本人が元気ならば笑い飛ばされるかもしれないが、彼には死期に際しての「繰り言」はなかっただろう。それにしても、早すぎたよ。君と多くのことを語り合いたかった。
地震リテラシーが高くない理由 [雑誌記事]
「大地動乱の時代にどう立ち向かうか」鎌田浩毅教授インタビュー、アエラ臨時増刊 No.18,2012.4.25号より
京都大学の鎌田教授がアエラのインタビューに答えている。重要な指摘や示唆に富んでいる。多くの人に伝えるべきと考え、ここにその概要を紹介したい。
3.11でM9の巨大地震が東日本を襲ったが、これは「幕開け」であった。3.11自体も「現在進行形」、すなわちM9の地震を起こした震源が広がり、二次的な大きな地震の連鎖をおそらく生むという。これは地震学の範囲のなかで予測できる事態だが、一方で「想定外」の事態も起きているという。
「いままでも、あやふやな知識はあったんです。首都圏には活断層だったり、プレートだったりと地震を起こしやすいものがあると。・・中略・・調べれば調べるほど、震度7を引き起こす危険な因子が見つかってくる。・・中略・・ことほど左様に、調べるほど、地震が起こりやすいこと、起きた場合に揺れが大きく、危険性が高くなることが分かってきたんです。」
「地球で起きる現象のすべてが科学で予測できるわけではないことが分かった。・・中略・・地震に伴う破壊現象は、いくら研究しても分からないことが『分かった』。地震にまつわる科学の最終目標は、地震を予知することでした。でも、地震を予知することはもはや絶望的です。」
ここまで、はっきりと白旗を揚げてしまうと、むしろすっきりする。いさぎよい。「本当は分からないということが良く分かった」というのは、(どこかの大臣が無知の知であることを認識しているからまだよしとするという件を思い出すが...)いずれ「分かる」かもしれないので「分かる」ことを期待してくださいと、議論を先に送るよりはずっとよい。
例えば、3.11の後、TV等のメディアでは、地球表面のプレートが別のプレートの下に潜り込み、耐え切れなくなって跳ね返るのが地震だと繰り返して説明し続けている。メカニズムとしてとてもわかりやすいが、それは一つの仮説に過ぎないことに気づかなければならない。あまりに単純化しすぎているため、わかったようなつもりになり、その結果思考が止まる。言われることを鵜呑みにする。これが一番のリスクだと思う。
地震の研究を進めることで、少しづつ現象の本質に近づいてはいるのだろうが、遠くない将来に天気予報と同じように地震の予測ができるようになるという発想はもう捨て去るべきだろう。東南海地震が切迫しているらしいという科学上の一つの仮説が、政策的な道具として利用され、その後見直しが行われないままに中途半端な予知神話を生み出したのだ。研究に携わっていたほとんどの人がその砂上楼閣の危うさに気づいていたのに、誰もそのことを指摘しなかった。あるいはその声が社会の表層にまで届かなかった。これはもう、原発安全神話の地球物理版と言ってもよいのではないか。鎌田教授のインタビューを読んでその感を深くした。
「大地動乱時代に入った状況の中で、地震に対する知識の不足は深刻です。普通の人は地震についてほとんど何も知らないですから。・・中略・・地震とか火山のリテラシーは中学生レベルでとまってしまっている。・・中略・・地球科学には『池上彰』がいないのです。」
池上彰がいないという指摘はすごいと思うが、地震リテラシーが中学生レベルというのは正直買いかぶり過ぎだろう。現実は、もっとはるかに低いところをさ迷っているはずだ。メディアが煽り立てる、「震度7の地震が発生する確率が○%に上昇」という類の情報の連発に、ただおたおたするばかりではないか。
「戦後の高度成長の間、日本に大きな地震がなかったというのは、ラッキー以外の何ものでもないのに、地震が起きないのが当然だと思ってきた。特に首都・東京には地震はなかった。だからこそ摩天楼ができてしまった。・・中略・・こんな場所に政治も経済も、文化も人間も一極集中している事態は異常です。首都圏機能移転は無理にしても、分散する必要はある。」
鎌田教授は、そんな日本でも絶望する必要などないと説く。恐怖だけを煽るのではなく、恵みも一緒に伝えることが大事だという。そのためのキーフレーズは「長い恵みと短い災害」。地震が起きてもせいぜい数十秒とか数分で、その時間をしのげば、あとは100年とか、千年とかの恵みを次世代は受け入れられると考える。なるほど、これは考え方の問題だ。不幸な運命のみを呪うのではなく、その後の長い長い幸福に思いを至らせるべきだというのは納得できる。だから、「地震が起きている短い時間をとにかく死なないようにすればいい」という。これは箴言だ。こうした「見方を変えて前向きに」という鎌田教授の意見には強く同意する。
「日本人のDNAには、本当にいろいろな自然現象が刻み込まれている。縄文時代以降、たくさんの地震もあれば噴火もありました。それを上手にやり過ごす知恵。噴火が来たら逃げる。収まったら、戻ってきて畑を耕す、・・中略・・国土が狭いとか、資源がないとか、ずっとネガティブメッセージばっかりを受け取っていますが、ポジティブな面も多い。・・中略・・農業、漁業ができ、いろんな農作物、豊かな海産物があるというのは、日本が変動帯で、変化に富む四季があり、大陸のように固定した地盤や気候じゃないことの賜物です。」
京都大学の鎌田教授がアエラのインタビューに答えている。重要な指摘や示唆に富んでいる。多くの人に伝えるべきと考え、ここにその概要を紹介したい。
3.11でM9の巨大地震が東日本を襲ったが、これは「幕開け」であった。3.11自体も「現在進行形」、すなわちM9の地震を起こした震源が広がり、二次的な大きな地震の連鎖をおそらく生むという。これは地震学の範囲のなかで予測できる事態だが、一方で「想定外」の事態も起きているという。
「いままでも、あやふやな知識はあったんです。首都圏には活断層だったり、プレートだったりと地震を起こしやすいものがあると。・・中略・・調べれば調べるほど、震度7を引き起こす危険な因子が見つかってくる。・・中略・・ことほど左様に、調べるほど、地震が起こりやすいこと、起きた場合に揺れが大きく、危険性が高くなることが分かってきたんです。」
「地球で起きる現象のすべてが科学で予測できるわけではないことが分かった。・・中略・・地震に伴う破壊現象は、いくら研究しても分からないことが『分かった』。地震にまつわる科学の最終目標は、地震を予知することでした。でも、地震を予知することはもはや絶望的です。」
ここまで、はっきりと白旗を揚げてしまうと、むしろすっきりする。いさぎよい。「本当は分からないということが良く分かった」というのは、(どこかの大臣が無知の知であることを認識しているからまだよしとするという件を思い出すが...)いずれ「分かる」かもしれないので「分かる」ことを期待してくださいと、議論を先に送るよりはずっとよい。
例えば、3.11の後、TV等のメディアでは、地球表面のプレートが別のプレートの下に潜り込み、耐え切れなくなって跳ね返るのが地震だと繰り返して説明し続けている。メカニズムとしてとてもわかりやすいが、それは一つの仮説に過ぎないことに気づかなければならない。あまりに単純化しすぎているため、わかったようなつもりになり、その結果思考が止まる。言われることを鵜呑みにする。これが一番のリスクだと思う。
地震の研究を進めることで、少しづつ現象の本質に近づいてはいるのだろうが、遠くない将来に天気予報と同じように地震の予測ができるようになるという発想はもう捨て去るべきだろう。東南海地震が切迫しているらしいという科学上の一つの仮説が、政策的な道具として利用され、その後見直しが行われないままに中途半端な予知神話を生み出したのだ。研究に携わっていたほとんどの人がその砂上楼閣の危うさに気づいていたのに、誰もそのことを指摘しなかった。あるいはその声が社会の表層にまで届かなかった。これはもう、原発安全神話の地球物理版と言ってもよいのではないか。鎌田教授のインタビューを読んでその感を深くした。
「大地動乱時代に入った状況の中で、地震に対する知識の不足は深刻です。普通の人は地震についてほとんど何も知らないですから。・・中略・・地震とか火山のリテラシーは中学生レベルでとまってしまっている。・・中略・・地球科学には『池上彰』がいないのです。」
池上彰がいないという指摘はすごいと思うが、地震リテラシーが中学生レベルというのは正直買いかぶり過ぎだろう。現実は、もっとはるかに低いところをさ迷っているはずだ。メディアが煽り立てる、「震度7の地震が発生する確率が○%に上昇」という類の情報の連発に、ただおたおたするばかりではないか。
「戦後の高度成長の間、日本に大きな地震がなかったというのは、ラッキー以外の何ものでもないのに、地震が起きないのが当然だと思ってきた。特に首都・東京には地震はなかった。だからこそ摩天楼ができてしまった。・・中略・・こんな場所に政治も経済も、文化も人間も一極集中している事態は異常です。首都圏機能移転は無理にしても、分散する必要はある。」
鎌田教授は、そんな日本でも絶望する必要などないと説く。恐怖だけを煽るのではなく、恵みも一緒に伝えることが大事だという。そのためのキーフレーズは「長い恵みと短い災害」。地震が起きてもせいぜい数十秒とか数分で、その時間をしのげば、あとは100年とか、千年とかの恵みを次世代は受け入れられると考える。なるほど、これは考え方の問題だ。不幸な運命のみを呪うのではなく、その後の長い長い幸福に思いを至らせるべきだというのは納得できる。だから、「地震が起きている短い時間をとにかく死なないようにすればいい」という。これは箴言だ。こうした「見方を変えて前向きに」という鎌田教授の意見には強く同意する。
「日本人のDNAには、本当にいろいろな自然現象が刻み込まれている。縄文時代以降、たくさんの地震もあれば噴火もありました。それを上手にやり過ごす知恵。噴火が来たら逃げる。収まったら、戻ってきて畑を耕す、・・中略・・国土が狭いとか、資源がないとか、ずっとネガティブメッセージばっかりを受け取っていますが、ポジティブな面も多い。・・中略・・農業、漁業ができ、いろんな農作物、豊かな海産物があるというのは、日本が変動帯で、変化に富む四季があり、大陸のように固定した地盤や気候じゃないことの賜物です。」
その地名はあぶない [新聞記事]
「地名で災害予測の困難」今尾恵介、2012年4月11日、読売新聞朝刊、文化欄を読んで
今尾恵介氏は地図エッセイスト。地名に対する深い論考が多く、著作でも多数取り上げている。今回の記事は、地名には大災害の記憶が残されているといった意見が、3.11後に多くメディア等で流れていることに地名の専門家としての反論を示したもの。
その土地が災害を受けやすいかは地名をよく読み込めばわかるという話だ。水害であれば、池・沼・沢・江・浦・谷・田・浜・島・橋などのついた所は、かつて沼沢地か汀線地であった可能性が高く、低地で湿地でもしかすると地盤も柔らかいと疑うべきであるという。都心であれば、月島、芝浦、溜池、四ツ谷、市ヶ谷、曙橋、京橋、日本橋、湯島などがそれにあたるだろうか。3.11後は、特に津波の襲来履歴が地名に刻みこまれているという意見が力を得ているようで、雑誌やTVなどでも繰り返し流されている。例えば、東北の太平洋側に多い「おな」や「かま」という音のつく地名。女川、小名浜、釜石、塩釜、鎌倉はかつて巨大津波に襲われたことを子孫が忘れないよう、その事実を地名に刻み込んでいる可能性があるという類の話しだ。
今尾氏は、こうした意見に対して「しばしば不確実な材料を根拠にいたずらに不安をかき立てるものが見受けられるは残念だ」と述べ、さらに「日本の地名が単純に字面で解釈できないのは地名学の常識だ」と明確に断じている。
「実在の沢や沼に基づく『沢・沼』の地名が多いこともまた事実であるが、そうだとしても命名された時点における地名の対象が具体的にどの沢・沼なのか(現存しない可能性もある)を確定するのは至難の業だ。それにもし、沢や沼のつく苗字の豪族が開いた土地だとすれば、危険度などまったく無意味になる」
「特に古い地名は何通りもの解釈が可能なので、どうしても論者の『我田引水』に陥りやすい。仮に地名の由来が完璧に判明したしても、その地名の範囲は町名地番整理などでしばしば大きく変わっている」
「結論を言えば、『この地名が危ない』などと一般化して断定する言説の信頼度は、たとえば『これを食べるとがんになる』類と同程度である。歴史的な地名が安全性を知るヒントになる場合があることは否定しないが、土地の安全性をもっと確実に知りたいのなら、むしろ『土地条件図』などを子細に検討したほうがはるかに合理的である」
「地名に隠された真実」といった話は確かに目を引くのだが、なにより科学的でないところがつらい。日本の地名の由来を深く観察してきた専門家からすれば、言葉遊びもここに極まるといった思いなのではないだろうか。今尾氏のような冷静な立場からの意見は、決して煽動メディアに取り上げられることはないのだろう。
煽り立てる意図はメディア側にあって、主張している側は単に一つの意見を述べているだけなのだろうが、3.11の後は、先に煽ったほうが勝ち的な雰囲気が充満しており、これは時間が経過しても落ち着く様子が見えていない。高知に30mを超える津波が来るらしいといった話しも、途中経過を飛ばして結論だけをぶん投げられた住民はとまどうばかりであろう。煽動メディアの次の標的はすぐに対応策を示さない行政に向かうのだろうが、この騒いでさえいればよいという杜撰さはいったいどこから来るのか。
3.11以降、科学者や技術者の多くが、感情に支配された誹謗中傷に晒されることを恐れ、口を開いて正論を述べることを避けるようになっているように感じている。これでは、ファッショに声を出さなかった何十年か前のどこかの国の知識人と同じではないか。国を亡ぼすのは一人の独裁者なのか、独裁者を産み出し育てたい国民なのか、いまの日本はその境目にさしかかっているように思う。
今尾恵介氏は地図エッセイスト。地名に対する深い論考が多く、著作でも多数取り上げている。今回の記事は、地名には大災害の記憶が残されているといった意見が、3.11後に多くメディア等で流れていることに地名の専門家としての反論を示したもの。
その土地が災害を受けやすいかは地名をよく読み込めばわかるという話だ。水害であれば、池・沼・沢・江・浦・谷・田・浜・島・橋などのついた所は、かつて沼沢地か汀線地であった可能性が高く、低地で湿地でもしかすると地盤も柔らかいと疑うべきであるという。都心であれば、月島、芝浦、溜池、四ツ谷、市ヶ谷、曙橋、京橋、日本橋、湯島などがそれにあたるだろうか。3.11後は、特に津波の襲来履歴が地名に刻みこまれているという意見が力を得ているようで、雑誌やTVなどでも繰り返し流されている。例えば、東北の太平洋側に多い「おな」や「かま」という音のつく地名。女川、小名浜、釜石、塩釜、鎌倉はかつて巨大津波に襲われたことを子孫が忘れないよう、その事実を地名に刻み込んでいる可能性があるという類の話しだ。
今尾氏は、こうした意見に対して「しばしば不確実な材料を根拠にいたずらに不安をかき立てるものが見受けられるは残念だ」と述べ、さらに「日本の地名が単純に字面で解釈できないのは地名学の常識だ」と明確に断じている。
「実在の沢や沼に基づく『沢・沼』の地名が多いこともまた事実であるが、そうだとしても命名された時点における地名の対象が具体的にどの沢・沼なのか(現存しない可能性もある)を確定するのは至難の業だ。それにもし、沢や沼のつく苗字の豪族が開いた土地だとすれば、危険度などまったく無意味になる」
「特に古い地名は何通りもの解釈が可能なので、どうしても論者の『我田引水』に陥りやすい。仮に地名の由来が完璧に判明したしても、その地名の範囲は町名地番整理などでしばしば大きく変わっている」
「結論を言えば、『この地名が危ない』などと一般化して断定する言説の信頼度は、たとえば『これを食べるとがんになる』類と同程度である。歴史的な地名が安全性を知るヒントになる場合があることは否定しないが、土地の安全性をもっと確実に知りたいのなら、むしろ『土地条件図』などを子細に検討したほうがはるかに合理的である」
「地名に隠された真実」といった話は確かに目を引くのだが、なにより科学的でないところがつらい。日本の地名の由来を深く観察してきた専門家からすれば、言葉遊びもここに極まるといった思いなのではないだろうか。今尾氏のような冷静な立場からの意見は、決して煽動メディアに取り上げられることはないのだろう。
煽り立てる意図はメディア側にあって、主張している側は単に一つの意見を述べているだけなのだろうが、3.11の後は、先に煽ったほうが勝ち的な雰囲気が充満しており、これは時間が経過しても落ち着く様子が見えていない。高知に30mを超える津波が来るらしいといった話しも、途中経過を飛ばして結論だけをぶん投げられた住民はとまどうばかりであろう。煽動メディアの次の標的はすぐに対応策を示さない行政に向かうのだろうが、この騒いでさえいればよいという杜撰さはいったいどこから来るのか。
3.11以降、科学者や技術者の多くが、感情に支配された誹謗中傷に晒されることを恐れ、口を開いて正論を述べることを避けるようになっているように感じている。これでは、ファッショに声を出さなかった何十年か前のどこかの国の知識人と同じではないか。国を亡ぼすのは一人の独裁者なのか、独裁者を産み出し育てたい国民なのか、いまの日本はその境目にさしかかっているように思う。
氷室が創るエネルギー [雑誌記事]
「この人に聞く;室蘭工業大学教授媚山政良さんに伺いました」土木学会誌 vol.97 no.4 April 2012 より媚山氏は札幌生まれの札幌育ち。雪がすぐそばにあり、雪を見て育った。雪国の雪は降るときには美しいが、積もっては邪魔者扱いされる。除雪という言葉にもよけいなものを処分するという意味が込められている。小学校のときに、学校の校庭に雪が山のように積み上げられ、春先に雪が溶け、汚く泥だらけになるのが見ていてとても切なかったという。「もったいないというか、なんだか可哀想だ」という思いが、熱関係の研究者になっても心を離れず、30代後半で研究室の運営をまかされるようになった時に、雪の利用の研究を始めることになった。
最初に取り組んだのは、帯広郊外の幕別での氷室づくり。そもそも氷室というのは、冬にしか得られない氷を洞窟などの冷所に保存しておき、夏に取り出して使うことを目的にして作られたもの。氷室の利用は、古くは日本書紀にも出てくるが、きわめてまれな珍品なので高貴な身分の者にしか与えられることはなかったようだ。その仕組みを現代に蘇らそうという研究である。
幕別の氷室は、150mmの断熱材を入れた倉庫をつくり、その中に雪を貯め、1年中2~4℃くらいの低温に保っておくもの。計算では、部屋の半分くらい雪を入れれば9月、10月まで温度が保てることがわかったが、半分も使ってしまったのでは農作物の貯蔵庫としては失格かと思ったが、農業倉庫というのは収穫時期とのタイミングさえ調整できれば問題がないことに気づき、実用に供しうると判断したという。この氷室は、雪を入れておくだけなので、電気のないところでも1年中運用できるところがミソ。一年を通して、温度が低く、湿度が90%以上のため、野菜の保存に適している。長イモでは、冷蔵庫では1ヶ月で重さが5%落ちるが氷室では10ヶ月で5%しか減らない。ジャガイモにいたっては、冷やすと凍結しないように自分の中で糖分をつくり出し、おどろくほど甘くなるという。
氷室からスタートした研究は、次に「雪冷房」という仕組みに進化する。別の部屋に貯めた雪に送風機で空気を循環させ、対象とする部屋を冷やすもの。氷柱の原理を大型にしたものと言えば簡単だが、雪を長期間貯めておくノウハウと暖風をあてすぎて溶かしきらない工夫がいる。それでもとっつきやすさが評価され、雪冷房を利用した施設は、全国で200箇所以上になるという。特に大きな評価を得たのは、2008年に洞爺湖で開催されたサミットにおいて、留寿都に建設した国際メディアセンターの空調に雪冷房を採用したことだ。施設には、7000tの雪を貯蔵し、合計で93%の熱量が供給されたことが確かめられた。
この洞爺湖の成功がホワイトデータセンター(WDC)構想につながった。このWDCは、単に雪冷房や外気冷房を取り入れるデータセンターに止まらず、敷地内に植物栽培工場と発電所を設けることで、データセンターから出た熱や発電時に出た熱を植物工場で利用し、コジェネを行う。さらに植物工場で作った菜種などの植物燃料をその発電所で使うことでトータルな地産地消を実現するもの。
こうした展開をみると、着々と利用が拡大しているようにも見えるのだが、氷室から出発してここに至るというのは決して容易いことではないように思う。先人の少ない研究領域をコツコツと実績を積み上げているのは、媚山氏の雪に対するこだわりとともに地域のパートナーとの関係を丁寧に作り上げている結果なのではないだろうか。エネルギーの研究というと、先端領域のデバイスの開発や巨大システム、あるいはITとの融合といったアプローチが思い浮かぶが、「雪」をなんとかしたいというたった一人のこだわりが、その後ろに隠れていた可能性を引き出したことに喝采を送りたい。すごいね、エネルギーは奥が深い。
震度7にこうして備える [雑誌記事]
「こうやって生き延びる」防災学者32人アンケート;AERA 2012.4.9 を読んで
首都圏でも地震モデルの見直しで、直下型地震発生時の最大深度が7を越える可能性が示されるようになってきた。南海、東南海、東海沖の3重連動地震でも震度7を想定すべきということになっており、震度7は以前と比べて現実感が出てきているといってよいだろう。そのタイミングでこのAERAの特集記事は興味深い。現在の防災のプロである学者32人に対して巨大地震にどう備えているかをアンケートして問うたもの。防災学者といっても、専門とする領域は少しづつ異なっているだろうし、なにより地震に対する経験の有無も回答に濃淡を出しているはずなので、そのつもりで読む必要はあるだろうが一読の価値あり。おススメ記事だ。
質問は、Q1:震度7を生き残ることができますか? Q2:大地震に遭遇して慌てないため、普段どんな心構えや具体的な準備をされていますか? Q3:地下鉄乗車中、繁華街で買い物中、職場で仕事中、自宅で就寝中に、大地震に遭遇した祭、どのように行動されますか? Q4:普段から持ち歩いている防災用品は何ですか? の4つ。Q1はちょっと意地悪な質問だが、それでも8人が「はい」と答えている。AERAは、ずいぶんと少ないというコメントをつけているが、これはむしろ勇気ある答えと誉めてあげるべきだろう。実名回答なので、なかなか言えないと思うが。
その他の質問に対する回答はまさに様々で、それはそれで興味深い。そして多様ではあるが、共通点もしっかりとあることも大事なところだろう。それは、地震が起きた時にどう行動するかを、日頃からシミュレーションしておくことがきわめて大切ということ。常に、もし今地震が起きたらと考える習慣を身につけておくこと。なにも考えてない、考えたこともないでは、「その時」に決して対応できないという。繰り返しの訓練で体に染み込ませておけということなのだろう。3.11の前までは、そうは言ってもという反論が必ず出てきただろうが、もうそういう状況ではないのだから。
もうひとつ、回答で注目したいのは、Q4:普段から持ち歩いている防災用品は何ですか?
回答のトップは「ラジオ」で10人。その次に「懐中電灯」、「携帯電話の充電器」、「呼子」が並ぶ。携帯の充電器が上位にあるということは、隠れトップ(敢えてあげていない)が携帯電話ということでもある。スマホが普及していくと、充電用の仕掛けを常備するのが必須になっていくだろう。連絡用や情報端末(ラジオにもTVにもなる)としての利用の他にも非常灯にもなるという回答もあった。
携帯などの近代装備と正反対の位置にいるのが、サバイバル道具としての懐中電灯と呼子になる。さらに磁石や万能ナイフ地図を上げた人もいる。このあたり、現場の知恵として重視したいところだ。私もカバンに小型LED灯を入れているのだが、呼子も早速手に入れることにしよう。ナイフはどうしたものか、もう少し考えてみたい。アナログと言えば、連絡先のリストというのもあった。なるほど、デジタルに依存しすぎるのも危険ということか。最後に頼るのは、紙に書いた文字というのが決め手かな。肝心のその時に、家族や友人の携帯の番号がわからないというのでは泣くに泣けないだろう。
首都圏でも地震モデルの見直しで、直下型地震発生時の最大深度が7を越える可能性が示されるようになってきた。南海、東南海、東海沖の3重連動地震でも震度7を想定すべきということになっており、震度7は以前と比べて現実感が出てきているといってよいだろう。そのタイミングでこのAERAの特集記事は興味深い。現在の防災のプロである学者32人に対して巨大地震にどう備えているかをアンケートして問うたもの。防災学者といっても、専門とする領域は少しづつ異なっているだろうし、なにより地震に対する経験の有無も回答に濃淡を出しているはずなので、そのつもりで読む必要はあるだろうが一読の価値あり。おススメ記事だ。
質問は、Q1:震度7を生き残ることができますか? Q2:大地震に遭遇して慌てないため、普段どんな心構えや具体的な準備をされていますか? Q3:地下鉄乗車中、繁華街で買い物中、職場で仕事中、自宅で就寝中に、大地震に遭遇した祭、どのように行動されますか? Q4:普段から持ち歩いている防災用品は何ですか? の4つ。Q1はちょっと意地悪な質問だが、それでも8人が「はい」と答えている。AERAは、ずいぶんと少ないというコメントをつけているが、これはむしろ勇気ある答えと誉めてあげるべきだろう。実名回答なので、なかなか言えないと思うが。
その他の質問に対する回答はまさに様々で、それはそれで興味深い。そして多様ではあるが、共通点もしっかりとあることも大事なところだろう。それは、地震が起きた時にどう行動するかを、日頃からシミュレーションしておくことがきわめて大切ということ。常に、もし今地震が起きたらと考える習慣を身につけておくこと。なにも考えてない、考えたこともないでは、「その時」に決して対応できないという。繰り返しの訓練で体に染み込ませておけということなのだろう。3.11の前までは、そうは言ってもという反論が必ず出てきただろうが、もうそういう状況ではないのだから。
もうひとつ、回答で注目したいのは、Q4:普段から持ち歩いている防災用品は何ですか?
回答のトップは「ラジオ」で10人。その次に「懐中電灯」、「携帯電話の充電器」、「呼子」が並ぶ。携帯の充電器が上位にあるということは、隠れトップ(敢えてあげていない)が携帯電話ということでもある。スマホが普及していくと、充電用の仕掛けを常備するのが必須になっていくだろう。連絡用や情報端末(ラジオにもTVにもなる)としての利用の他にも非常灯にもなるという回答もあった。
携帯などの近代装備と正反対の位置にいるのが、サバイバル道具としての懐中電灯と呼子になる。さらに磁石や万能ナイフ地図を上げた人もいる。このあたり、現場の知恵として重視したいところだ。私もカバンに小型LED灯を入れているのだが、呼子も早速手に入れることにしよう。ナイフはどうしたものか、もう少し考えてみたい。アナログと言えば、連絡先のリストというのもあった。なるほど、デジタルに依存しすぎるのも危険ということか。最後に頼るのは、紙に書いた文字というのが決め手かな。肝心のその時に、家族や友人の携帯の番号がわからないというのでは泣くに泣けないだろう。
島津と相馬 [メルマガから]
鎌倉時代から700年以上も同じ地を統治した一族は日本で三つしかない。島津、相馬、相良の三家のみである。その相馬と島津が邂逅した。加治木島津家十三代当主であり野太刀自顕流の使い手でもある島津義秀氏と相馬高校の剣道部との交流を仲立ちした、東大医学部の前田氏がその体験を訪問記としてまとめている。
3.11から1年が経過した中で、どっしりと腰を据えて復興に奮闘している現場の人たちの姿が浮かび上がる。前田氏が最後に訪問し懇談した立谷秀清相馬市長との会話が、氏に強烈な印象を残したことがよくわかり、市長の勝手応援団としては大変に興味深い。
市長は「誰のせいにもしない」という。誰かのせいだということにしてしまうと話は簡単かもしれないが、結局はものごとはなにも進まない、進む速度ががたんと落ちるという。時間と闘っているときに誰のせいなどということはどうでもいい。こうして腹を括ったリーダーがいることがなにより大事だと改めて感じる。
なお、きっかけになった島津と相馬の邂逅については、ロマンたっぷりでさらにその歴史背景を知りたくなるところだが、ここでは省かせていただいた。
-------------------------------------------------------------------------
東京大学医学部医学科五年
前田 裕斗
2012年3月28日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
Vol.445 「復興の精神―相馬と薩摩、二つの意地」 より一部転載
(前略)
私は東京大学医学部医学科の五年生で、今回相馬市立総合病院で働いている坪倉正治医師が知り合いということもあり、福島県相馬市を訪れる機会に恵まれた。ここでは現地で直接見てきた、聞いてきたことをお届けしたいと思う。
(中略)
夜は市長を含む相馬市役所の方々と現地の医療・教育についての意見交換を行った。印象的だったのは市長のリーダーシップの下、多彩な人々が相馬市復興のた め働いていたことだ。例えば建設部長の小山健一さんは、国土交通省から派遣されてきた方で、一度は任期を終え中央へ戻るということで花まで貰ったが、震災を受け相馬市に残ることを決断した。特技はボイスパーカッションという、なんともユニークな方だ。阿部勝弘さんは秘書課係長で、市長の補佐役として尽力している。震災後、休みを初めて取れたのはいつですかと聞くと、「四月末か五月か...覚えてないですね。とにかくしばらくは役所に行かない、という日はなかったです。」とのことで、当時は市役所に布団を敷いて寝泊りすることもあったそうだ。個人としても相当なストレスがかかり心労の溜まる中、現場の人々はこんなにも頑張っていたのかということに驚かされた。
さて、最後に今回私が経験した中で最も心に残った言葉を記そうと思う。それは、立谷市長の「私が震災当初から守り通している考えが一つある。それは誰のせいにもしない、ということだ。」という言葉だ。人のせいにしない。天のせいにもしない。誰かの、なにかのせいにすれば誰が責任をとるのか、どこまで補償してくれるのかといった議論になり結果復興に取り組むのが遅れていく。そうではなく、現場の中で今復興のために何が出来るのか、必要なことはなんなのかを考え実行していくことが大切だ、と。相馬市の人々は、復興のため現在も頑張っている。
(後略)
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3.11から1年が経過した中で、どっしりと腰を据えて復興に奮闘している現場の人たちの姿が浮かび上がる。前田氏が最後に訪問し懇談した立谷秀清相馬市長との会話が、氏に強烈な印象を残したことがよくわかり、市長の勝手応援団としては大変に興味深い。
市長は「誰のせいにもしない」という。誰かのせいだということにしてしまうと話は簡単かもしれないが、結局はものごとはなにも進まない、進む速度ががたんと落ちるという。時間と闘っているときに誰のせいなどということはどうでもいい。こうして腹を括ったリーダーがいることがなにより大事だと改めて感じる。
なお、きっかけになった島津と相馬の邂逅については、ロマンたっぷりでさらにその歴史背景を知りたくなるところだが、ここでは省かせていただいた。
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東京大学医学部医学科五年
前田 裕斗
2012年3月28日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
Vol.445 「復興の精神―相馬と薩摩、二つの意地」 より一部転載
(前略)
私は東京大学医学部医学科の五年生で、今回相馬市立総合病院で働いている坪倉正治医師が知り合いということもあり、福島県相馬市を訪れる機会に恵まれた。ここでは現地で直接見てきた、聞いてきたことをお届けしたいと思う。
(中略)
夜は市長を含む相馬市役所の方々と現地の医療・教育についての意見交換を行った。印象的だったのは市長のリーダーシップの下、多彩な人々が相馬市復興のた め働いていたことだ。例えば建設部長の小山健一さんは、国土交通省から派遣されてきた方で、一度は任期を終え中央へ戻るということで花まで貰ったが、震災を受け相馬市に残ることを決断した。特技はボイスパーカッションという、なんともユニークな方だ。阿部勝弘さんは秘書課係長で、市長の補佐役として尽力している。震災後、休みを初めて取れたのはいつですかと聞くと、「四月末か五月か...覚えてないですね。とにかくしばらくは役所に行かない、という日はなかったです。」とのことで、当時は市役所に布団を敷いて寝泊りすることもあったそうだ。個人としても相当なストレスがかかり心労の溜まる中、現場の人々はこんなにも頑張っていたのかということに驚かされた。
さて、最後に今回私が経験した中で最も心に残った言葉を記そうと思う。それは、立谷市長の「私が震災当初から守り通している考えが一つある。それは誰のせいにもしない、ということだ。」という言葉だ。人のせいにしない。天のせいにもしない。誰かの、なにかのせいにすれば誰が責任をとるのか、どこまで補償してくれるのかといった議論になり結果復興に取り組むのが遅れていく。そうではなく、現場の中で今復興のために何が出来るのか、必要なことはなんなのかを考え実行していくことが大切だ、と。相馬市の人々は、復興のため現在も頑張っている。
(後略)
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末の松山なみこさじとは [雑誌記事]
「巨大津波無視された警告」柳田邦男、文藝春秋4月号より
政府の事故調(東電福島原発事故調査・検証委員会)の委員である柳田氏は、公的な調査とは別に、独自に取材と研究に取り組んできたその調査分析の一部を示したもの。東北大の箕浦幸治教授が3.11が起こる25年も前に提起していた巨大津波の警告が、なぜ埋もれていたかというレポートでもある。
箕浦教授はそもそもの専門が地質学であり、津波とは縁があったわけではない。それが大きく変わるきっかけは、1983年5月に起きたM7.7の日本海中部地震(震源は男鹿半島沖)のときに生じた大津波で多くの命が失われたこと。当時、弘前大学の講師だった箕浦氏は、津波の脅威を体験し、「科学は未来を予測することはできなくても、過去を性格に知ることができるし、そのことから災害の悲劇を繰り返さないために、どう備えなければならないかを提言することができるはずだ」と考え、その後、個々の地域に過去に起きた巨大災害の特性を、古文書と地層の記録から読み解くことによって、地域の防災計画に貢献できるような研究に進むことになったという。
明治時代の歴史学者である吉田東伍が、平安時代の公的な歴史記録である「日本三代実録」の中の貞観十一年(869年)五月二十六日の地震・津波災害記録に注目して自ら現地調査を行ったことに前から感銘を受けていた箕浦氏は、文献考古学に地質調査のアプローチを加えることで災害の実態を把握できるのではないかと考えた。近年ではほとんど注目されていなかった仙台平野における津波災害の実態を明らかにしようとした。
ここで言う地質調査とは、地表の下に塁重している地層の中から災害の「印」を見出すことであり、ボーリングによって地表から深く掘削して行うことになる。ボーリングによる地質調査は、その土地に起きた事象を歴史的に遡って知ることができる。はるか昔にその場所が海底にあったときには海底堆積物が、陸上にあるときには河川氾濫による堆積物や、あるいは火山噴出物がゆっくりと時を刻むように積もり重なっていく。気の遠くなるような時間の経過によって地層が形成されていくのだ。
三代実録には、押し寄せた津波が陸奥国府の城下まで達し、一千名を越す溺死者が出たと記されている。当時の城は、現在の多賀城市の市川橋辺りと見られている。箕浦氏は、これを実証するため海岸から約三キロの多賀城付近をボーリングしようとしたが、その界隈はほとんど住宅地になっているためここを回避し、少し南に下がって水田の広がる仙台市若林区荒浜でボーリングを行った。その結果、地表から20センチほどの表土の下に、西暦915年の十和田噴火の火山灰層があり、さらにその数センチ深いところに、20センチ以上も積もった貞観津波の海砂の堆積がはっきりと現われた。この歴史的上下関係は、さらに放射性炭素を用いた年代測定によって確認された。文献が事実であることがこうして示された。
仙台平野に津波は襲ってこないという常識を覆す研究がこうして始まった。箕浦氏は、その年の地震学会で貞観地震が歴史的に最大級の津波であり、仙台平野における津波対策を再考する必要があるという研究成果を発表した。「海岸域の湖沼底質堆積物中に記録された地震津波;箕浦幸治、中谷周、佐藤裕、地震学会予稿集、1986.2、61-61」
ところが、地震学者たちは、この報告に全く関心を示さなかったという。理由はいろいろあるのだろうが、なにより箕浦氏が地震ムラの構成員ではなかったことが大きかったのではないだろうか。地震によって生じた断層の存在をボーリングで把握することは行われていたが、津波痕跡を地質調査から発見する、しかもその傍証を古文書に求めるという研究アプローチは、地震発生機構の究明に集中する地震学主流の視点からするとあまりに迂遠でありアウトサイダーに過ぎたのかもしれない。
箕浦氏は起点となった荒浜での調査に続いて、地域的な広がりの確認と貞観以外の津波来襲の可能性探索を開始する。その結果、仙台平野を襲った巨大津波が四つもあること、そしてその発生間隔を平均的に八百年から千百年に一回と結論づけ、これを1990年にアメリカの地質学会誌に投稿して掲載された。「Trances of tsunami preserved in inter-tidal lacustrine and marsh deposits:some examples from northeast Japan, Jounal of Geology,99,265-287,Minoura,K and Nakaya,S (1990)」
これを米国の学会に発表したのは、先の研究成果が日本で評価されていなかったことにもよるらしいが、実はここで不思議なことが起きている。すなわち、この米国発表の一年ほど前に東北電力の津波研究グループから協力要請があり、仙台平野における貞観津波の堆積物研究のデータを提供したのだが、そのグループは、箕浦氏の事前の了解を得ないままに、1990年の地震学会誌に仙台平野でのはじめての津波堆積物調査として発表している。「仙台平野における貞観11年(869年)三陸津波の痕跡高の推定;阿部壽、菅野喜貞、千釜章、地震 43,513-525」
この不可思議な研究は、実は東北電力女川原発の計画とつながっていた。女川が津波常襲地であることは誰もが知っていることなので、その対策については設置計画の最初から繰り返し検討されてはおり、昭和45年に設置許可申請が行われ、昭和59年(1984年)に運転を開始している1号機では、明治三陸津波と昭和三陸津波の文献調査や聞き込み調査に基づいて敷地高さ(海面から15m)に構造物を設けることによって津波対策とすることが結論づけられた。
昭和62年(1987年)に設置許可申請された2号機では、これまでの議論に加えて、考古学や堆積学の知見を加えるべきとの意見があり、ここで貞観津波の痕跡調査が必要とされたようだ。そこで、1986年の地震学会での箕浦氏の発表に着目したというのがタイミングから推測される。学会的にはマイナーな研究に注目し、安全性評価に用いた基本姿勢は、いまから考えても高く評価できるのだが、仙台平野の奥深く津波が襲うと言う事実よりも、女川の原発設置位置(高さ)に津波が届くかどうかだけに興味が偏っていたのではないかと言われても止むをえまい。仙台平野が、ましてやその南にある福島原発が巨大津波に襲われるかどうかなど考えもしなかったというのが実態ではないだろうか。他人のことは知ったことではないということか。
箕浦氏の研究は1990年代の後半になって大きな展開をみせる。東北大学災害制御センターの今村文彦教授(当時)のチームとの共同研究が始まり、文献と地質調査からの推論に数値シミュレーションを加えることで、より津波の実態に近づくことになる。2010年には、貞観津波の波源域が二百キロを越える長大なものであった可能性が示され、当然にその影響範囲も福島県に至ることも確認された。
ここまでの経緯をみると、科学的なアプローチが手順を踏みながらしっかりできていて、どうして対策が何も講じられていなかったのか不思議でならない。最後に柳田邦男氏の文章を一部だが引用しておきたい。
「貞観津波の研究は、はじめのうちは仙台平野に貞観津波の痕跡を探す細々としたものだった。だが、そのことを研究テーマにする研究グループが増えるにつれて、貞観津波のスケールの大きさや巨大津波の周期性などが科学的に解明されてきた。そこに、では福島ではどうなのかという問いが生まれてくるのは、自然の流れだろう。仙台平野一帯をほとんど同じ勢いで内陸へ二キロも三キロも侵入していくほどの津波が、福島県側には侵入しないということはあり得ない」
※ 本ブログ表題は「ちぎりきな、かたみに袖をしぼりつつ、末の松山、浪こさじとは;清原元輔、百人一首」によるが、この「末の松山」とは貞観津波に襲われた当時の陸奥国府のことを指すとされている
政府の事故調(東電福島原発事故調査・検証委員会)の委員である柳田氏は、公的な調査とは別に、独自に取材と研究に取り組んできたその調査分析の一部を示したもの。東北大の箕浦幸治教授が3.11が起こる25年も前に提起していた巨大津波の警告が、なぜ埋もれていたかというレポートでもある。
箕浦教授はそもそもの専門が地質学であり、津波とは縁があったわけではない。それが大きく変わるきっかけは、1983年5月に起きたM7.7の日本海中部地震(震源は男鹿半島沖)のときに生じた大津波で多くの命が失われたこと。当時、弘前大学の講師だった箕浦氏は、津波の脅威を体験し、「科学は未来を予測することはできなくても、過去を性格に知ることができるし、そのことから災害の悲劇を繰り返さないために、どう備えなければならないかを提言することができるはずだ」と考え、その後、個々の地域に過去に起きた巨大災害の特性を、古文書と地層の記録から読み解くことによって、地域の防災計画に貢献できるような研究に進むことになったという。
明治時代の歴史学者である吉田東伍が、平安時代の公的な歴史記録である「日本三代実録」の中の貞観十一年(869年)五月二十六日の地震・津波災害記録に注目して自ら現地調査を行ったことに前から感銘を受けていた箕浦氏は、文献考古学に地質調査のアプローチを加えることで災害の実態を把握できるのではないかと考えた。近年ではほとんど注目されていなかった仙台平野における津波災害の実態を明らかにしようとした。
ここで言う地質調査とは、地表の下に塁重している地層の中から災害の「印」を見出すことであり、ボーリングによって地表から深く掘削して行うことになる。ボーリングによる地質調査は、その土地に起きた事象を歴史的に遡って知ることができる。はるか昔にその場所が海底にあったときには海底堆積物が、陸上にあるときには河川氾濫による堆積物や、あるいは火山噴出物がゆっくりと時を刻むように積もり重なっていく。気の遠くなるような時間の経過によって地層が形成されていくのだ。
三代実録には、押し寄せた津波が陸奥国府の城下まで達し、一千名を越す溺死者が出たと記されている。当時の城は、現在の多賀城市の市川橋辺りと見られている。箕浦氏は、これを実証するため海岸から約三キロの多賀城付近をボーリングしようとしたが、その界隈はほとんど住宅地になっているためここを回避し、少し南に下がって水田の広がる仙台市若林区荒浜でボーリングを行った。その結果、地表から20センチほどの表土の下に、西暦915年の十和田噴火の火山灰層があり、さらにその数センチ深いところに、20センチ以上も積もった貞観津波の海砂の堆積がはっきりと現われた。この歴史的上下関係は、さらに放射性炭素を用いた年代測定によって確認された。文献が事実であることがこうして示された。
仙台平野に津波は襲ってこないという常識を覆す研究がこうして始まった。箕浦氏は、その年の地震学会で貞観地震が歴史的に最大級の津波であり、仙台平野における津波対策を再考する必要があるという研究成果を発表した。「海岸域の湖沼底質堆積物中に記録された地震津波;箕浦幸治、中谷周、佐藤裕、地震学会予稿集、1986.2、61-61」
ところが、地震学者たちは、この報告に全く関心を示さなかったという。理由はいろいろあるのだろうが、なにより箕浦氏が地震ムラの構成員ではなかったことが大きかったのではないだろうか。地震によって生じた断層の存在をボーリングで把握することは行われていたが、津波痕跡を地質調査から発見する、しかもその傍証を古文書に求めるという研究アプローチは、地震発生機構の究明に集中する地震学主流の視点からするとあまりに迂遠でありアウトサイダーに過ぎたのかもしれない。
箕浦氏は起点となった荒浜での調査に続いて、地域的な広がりの確認と貞観以外の津波来襲の可能性探索を開始する。その結果、仙台平野を襲った巨大津波が四つもあること、そしてその発生間隔を平均的に八百年から千百年に一回と結論づけ、これを1990年にアメリカの地質学会誌に投稿して掲載された。「Trances of tsunami preserved in inter-tidal lacustrine and marsh deposits:some examples from northeast Japan, Jounal of Geology,99,265-287,Minoura,K and Nakaya,S (1990)」
これを米国の学会に発表したのは、先の研究成果が日本で評価されていなかったことにもよるらしいが、実はここで不思議なことが起きている。すなわち、この米国発表の一年ほど前に東北電力の津波研究グループから協力要請があり、仙台平野における貞観津波の堆積物研究のデータを提供したのだが、そのグループは、箕浦氏の事前の了解を得ないままに、1990年の地震学会誌に仙台平野でのはじめての津波堆積物調査として発表している。「仙台平野における貞観11年(869年)三陸津波の痕跡高の推定;阿部壽、菅野喜貞、千釜章、地震 43,513-525」
この不可思議な研究は、実は東北電力女川原発の計画とつながっていた。女川が津波常襲地であることは誰もが知っていることなので、その対策については設置計画の最初から繰り返し検討されてはおり、昭和45年に設置許可申請が行われ、昭和59年(1984年)に運転を開始している1号機では、明治三陸津波と昭和三陸津波の文献調査や聞き込み調査に基づいて敷地高さ(海面から15m)に構造物を設けることによって津波対策とすることが結論づけられた。
昭和62年(1987年)に設置許可申請された2号機では、これまでの議論に加えて、考古学や堆積学の知見を加えるべきとの意見があり、ここで貞観津波の痕跡調査が必要とされたようだ。そこで、1986年の地震学会での箕浦氏の発表に着目したというのがタイミングから推測される。学会的にはマイナーな研究に注目し、安全性評価に用いた基本姿勢は、いまから考えても高く評価できるのだが、仙台平野の奥深く津波が襲うと言う事実よりも、女川の原発設置位置(高さ)に津波が届くかどうかだけに興味が偏っていたのではないかと言われても止むをえまい。仙台平野が、ましてやその南にある福島原発が巨大津波に襲われるかどうかなど考えもしなかったというのが実態ではないだろうか。他人のことは知ったことではないということか。
箕浦氏の研究は1990年代の後半になって大きな展開をみせる。東北大学災害制御センターの今村文彦教授(当時)のチームとの共同研究が始まり、文献と地質調査からの推論に数値シミュレーションを加えることで、より津波の実態に近づくことになる。2010年には、貞観津波の波源域が二百キロを越える長大なものであった可能性が示され、当然にその影響範囲も福島県に至ることも確認された。
ここまでの経緯をみると、科学的なアプローチが手順を踏みながらしっかりできていて、どうして対策が何も講じられていなかったのか不思議でならない。最後に柳田邦男氏の文章を一部だが引用しておきたい。
「貞観津波の研究は、はじめのうちは仙台平野に貞観津波の痕跡を探す細々としたものだった。だが、そのことを研究テーマにする研究グループが増えるにつれて、貞観津波のスケールの大きさや巨大津波の周期性などが科学的に解明されてきた。そこに、では福島ではどうなのかという問いが生まれてくるのは、自然の流れだろう。仙台平野一帯をほとんど同じ勢いで内陸へ二キロも三キロも侵入していくほどの津波が、福島県側には侵入しないということはあり得ない」
※ 本ブログ表題は「ちぎりきな、かたみに袖をしぼりつつ、末の松山、浪こさじとは;清原元輔、百人一首」によるが、この「末の松山」とは貞観津波に襲われた当時の陸奥国府のことを指すとされている
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